ぶつぶつ日記

言葉の行方













ラジオにのせた言葉が空気になって消えてしまった。20年。どこかに着地してるかな。そんなことをここ数週間考えてる。誰かの言葉が自分の中を駆け巡って、いつの間にか自分のものに血や肉になるように、自分の言葉を誰かのものにしてもらえていたらいいなと思う。



タヒさんの言葉の展示は、足が動かなくなった。頭の中が時空を超えて走り回ったり息切れしたり、下唇を噛んで涙を堪えて立ち尽くした。1日居たい、何度でも行きたい。まるで音楽だった。

音楽は自由に楽しめるけれど、それだけに苦しくもなるし、他の人と感想を共有するのが難しいし、しなくてもいいことのようにも思える。

毎日いろいろな人たちがいろいろ言っていろいろな気持ちになってるのを眺めていて、もちろん自分もいろいろ見聞きして感情の渦もあるけど、今、タヒさんの展示をみて、衝撃を受けて、今だったんだなと思ってる。

言葉を物質として存在させるということ。詩というのは行間を読む作業を自由にして良いもので、むしろそうするために存在しているものだと思う。余白余韻行間、それが読者に委ねられているから楽しい。そう思って私は読んでる。昔から、とても好きな行為。自分の中身と輪郭がわかる。鏡を見るよりも。


音になることを予定されていない言葉
音としてうまれて空気になって消える予定の言葉