ぶつぶつ日記

ここにない、が存在する。

アナログ、触れ合える距離を切望してる。この頃。
「ここにない、不在」が存在する。何もないんじゃない。
渇望。

SNSとかとかとか、とにかく見えないものに振り回されすぎている。




見えないものに振り回されすぎるのは良くないのだけど、
けれど「見えないけれど存在するもの」も、とても大事なのだ。
人の心。サイレントリスナーと呼ばれる人の存在。
ラジオは何かしながらのBGMにして貰えるのがいい。
何となく理由もなく当然のようにそこにいるのが理想。
だから、ほとんどのリスナーさんはアクションを起こさない。
でも、それでいいのだ。
この秋、番組が変わることになって、
たくさんのサイレントだけど聞いてくれていて、愛してくれていた人たちの存在の多さに、改めてありがたい気持ちになった。全く会うことはないけれど、私たちの作るラジオを自分の生活の一部にしてくれている方々。本当に、ちゃんとラジオを作ることが出来ていたんだなぁと感動しました。終わってから、成績表をもらったような気持ちです。
いつも批判の声は大きく、私たちの耳に届きやすい。心の深くにまで足跡を残していく。なかなか消えない。だけど、温かな愛情には終わるまで気づけなかった。
見えるもの手で触れるものを大事にしたい気持ちがある反面、見えないものの中にも、反射神経ではない思いやりも存在する。




やっと見れた潮田千春個展。
大好きで何回も見に行ったボルタンスキー回顧展。

潮田千春の作品には、
「糸はもつれ、絡まり、切れ、解ける。
それは、人間関係を表すように、私の心をいつも映し出す。」と書かれていた。
広い部屋の中には、天井が赤く見えるほど赤い糸が大量に張り巡らされていた。
数隻の船からその糸は噴き出ているように見えた。
もしくは、感情を引き連れて船は旅に出ようとしていた。
いや、まだ見ぬ感情に引っ張られて旅に出るのか。
とにかく赤い糸と船が私をどこかに連れて行きそうだった。
そして糸を壁に留めているホッチキスの芯が、物凄い緊張感を引き受けていて、
それが私は苦しくて苦しくて、鼓動が早くなり、泣きそうになった。





















ボルタンスキーの作品は、三途の河原で、石を重ねているような気持ちになる。死の気配がすごい。ひょっとしたら、私たちの体験する全てがバーチャルで、実はただただ石を積み上げては倒れを繰り返しているだけなのかもしれない。
この光を見て泣いてしまうような、意味わかんないくらい凄い展示。本当に好き。ボルタンスキーは1人で体験するに限る。
私を立ち止まらせる。感じろ、感じろ、そして考えろ!と、激しく突きつけられている気がした。
やっぱり大好きだ。
数年前の誕生日に豊島で録音した私の心臓音は、まだ開封していない。
ポンピドゥセンターの大回顧展も行けたらいいな。