ぶつぶつ日記

次の季節




気付いたら夏が終わって、怒涛の9月10月が過ぎ、世の中は年末にむけて走り出している。

「こんなこと言うたらあかんと思うけど」の先に続くような言葉ばかり心に思い浮かんで、日に日にその言葉が色濃くなっていく日々だった。

自分の心が破滅する寸前だったと思う。毎日泣いていた。電車の中で、夜中の布団の中で、朝コーヒーを飲みながら、泣いていた。私の道徳観の中では、こんなこと思ってはいけないと考えていることばかり、自分の心に浮かんで溢れて近い人に溢してしまう、そういう自分が嫌だ。こんな人ではなかったのにって、自分のことをどんどん嫌いになった。それで毎日泣いていた。

人と接するなら、やっぱり間合いは大事だと思う。傷つける必要がない。気持ちよくお願いしたりお願いされたり引き受けたりしたい。そういう人たちと生きていきたい。

やっとの休みを確保して、友達と山登りに行った。数年ぶりの山で、すぐに息があがる。しょっちゅう休憩を取ってもらう。土の上に座って、木々の間から空を見て、冷たい空気を吸って吐いて、吸って吐いて、呼吸が整っていく。この瞬間がとにかく気持ちよくてぼんやりする。山と空と息があう。阿吽の呼吸でチームで何かをやり遂げると、とても気持ちいいけど、それにも似てると思った。何も喋らなくても一緒に居れる仲間といるのにも似てる。









その翌週。今度は健一自然農園の健一さんからお誘いをもらって、奈良へ連れ出して貰えた。急に。こういう時ってあるなと思った。みたらし団子を食べて散歩して、春日野で煎茶の茶席に参加させて貰った。芝生の上に敷物をして設えられた席に座って、会話しながらお茶をいただく。その間合いが本当に楽しくて気持ちよくて、心がほぐれていく。禅問答について、イントロダクションにもならないほど、ほんとに入り口を教えてもらう。そのなるほど感が、とても気持ちよくて、私には癒しなんだなと思った。

なるほどそういうことか、と腑に落ちる感覚は、あたまがこんがらがったり色んなタスクが立ちあがり続けていたりする人には、スッキリする=デトックスみたいな感覚なんだと思う。

お茶を淹れてくださった先生は、きっと私のそういうことを、何も言わなくても瞬時に汲み取って、あの時間を作ってくださったんだと思う。最上級のおもてなしをしていただいたと思う。煎茶はお茶を淹れる姿を見せる芸能ではなくて、お茶を飲みながら心を通わせる時間だとおっしゃった。

1番最初に「野外に出てカジュアルダウンさせても品を失わない」とおっしゃったのが、凄く納得できる、素晴らしいひとときだった。品って、言葉遣いじゃない。その言葉遣いが出てくる根っこの気持ちのことだと思う。だから、この文を読んでいるあなたが想像しているのとは違うかもしれない、凄くガハハな先生です。カジュアルダウンしてるけど、品がある。

大和の国を見渡せる、健一さんの茶畑にも連れて行ってもらった。立ち話をしていたら日が暮れて、国道が光の川になって、遠くの空港に飛行機が降り立ち、振り返ると綺麗な月。手が届きそうだった。

茶畑で摘んだお茶の花は、そのあと果物と合わせてカクテルにして貰ったり、季節を感じる食事をいただいて、ほんとに完璧な秋の1日だった。しかも奈良の良さが感じられる、奈良らしい素晴らしい日。


奈良は素朴で、わざわざ行きたい人が行く場所で、昔から変わらない風景の中で、昔から変わらない心地よさを感じて、今も昔も忘れてはならない大切な芯の部分を思い出す場所。じわじわで良いのだ。

自分には出来ない、と気づくのが大事じゃないかと思う。出来る人、その技術、人間性に敬意を持つことが出来るから。そこから人間関係は始まるはず。